福岡高等裁判所 昭和41年(ネ)560号 判決 1967年12月26日
主文
原判決を取り消す。
原判決添付第一図面表示の、本件係争地の北西端にある松の切株(原裁判所昭和三五年七月二二日実施の証拠調調書添付見取図表示の(チ)点)の中心点を基点とし、右基点を<20>とし、<20>から北四六度西、距離四〇メートルの地点を<21>とし、<21>から北五一度西、距離五〇・三メートルの地点を<22>とし、<22>から北五二度三〇分西、距離九六・七メートルの地点を<23>とし、<23>から北八一度五〇分西、距離一四五・五メートルの地点を<24>とし、<24>から北六六度三〇分西、距離一八一・五メートルの地点を<25>とし、<25>から北六八度西、距離二五・五メートルの地点を<26>とし、<26>から北七二度三〇分西、距離一四三・五メートルの地点を<27>とし、<27>から北七度東、距離九六メートルの地点を<1>とし、<1>から南四八度五〇分東、距離二五・七メートルの地点を<2>とし、<2>から南三八度東、距離二二・八メートルの地点を<3>とし、<3>から北七五度一〇分東、距離四二・五メートルの地点を<4>とし、<4>から北八五度一〇分東、距離三〇メートルの地点を<5>とし、<5>から南八四度東、距離四七・五メートルの地点を<6>とし、<6>から北八三度五〇分東、距離三六・六メートルの地点を<7>とし、<7>から北八七度五〇分東、距離五一メートルの地点を<8>とし、<8>から南七三度東、距離五九・五メートルの地点を<9>とし、<9>から南八〇度三〇分東、距離五三・三メートルの地点を<10>とし、<10>から南六〇度一五分東、距離五六・二メートルの地点を<11>とし、<11>から北八八度三〇分東、距離五二メートルの地点を<12>とし、<12>から南二八度一〇分東、距離五一・五メートルの地点を<13>とし、<13>から南五七度一五分東、距離五〇・五メートルの地点を<14>とし、<14>から南八二度東、距離三〇・五メートルの地点を<15>とし、<15>から南四四度東、距離四七・五メートルの地点を<16>とし、<16>から南四九度東、距離一二〇・五メートルの地点を<17>とし、<17>から南三一度四〇分東、距離三一メートルの地点を<18>とし、<18>から南五度東、距離一九・五メートルの地点を<19>とし、<19>から南三〇度西、距離九五・五メートルの地点が起点の<20>に当り、右<20>・<21>・<22>・<23>・<24>・<25>・<26>・<27>・<1>・<2>・<3>・<4>・<5>・<6>・<7>・<8>・<9>・<10>・<11>・<12>・<13>・<14>・<15>・<16>・<17>・<18>・<19>・<20>の各地点を順次直線で連結した線に囲まれた実測面積七三五九六・六九平方メートル(九町四反三畝二三歩)の土地が、控訴人等所有の福江市蕨町字清水二五五番ロ山林一町一畝一〇歩に属することを確認する。
被控訴人らは各自控訴人らに対し原判決添付目録記載の換価代金一二万五、二〇〇円を引き渡せ。
訴訟費用は被控訴人らの連帯負担とする。
事実
控訴人ら代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴人ら代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする」旨の判決を求めた。
当事者双方の主張と立証は、当審における証拠として控訴人ら代理人において甲第二一号証の一ないし三、第二二、第二三号証を提出し、証人江頭祥男、藤井清太郎、江頭馬之進、藤原元良、野原金次郎、本村国松の各証言控訴人紙村音八本人尋問並びに検証の各結果を援用し、乙第三号証は不知と述べ、被控訴人ら代理人において乙第三号証を提出し、証人塩塚久男、中尾円吉の各証言、被控訴人釘本彦松本人尋問の結果を援用し、当審提出の甲号証の成立はすべて認めると述べたほかは原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。
理由
当裁判所も福江市蕨町字清水二五五番ロの山林一町一畝一〇歩の所有関係、本件係争地の具体的状況、係争地の南西側の峰の稜線を境界として隣接する土地が大開部落の管理する字楠泊二四六番の二五及び二六の現地にあたる山林であること等についての原判決の判断を何れも相当と認めるので、この理由部分を引用する(原判決理由冒頭から七枚目表九行まで。但し、六枚目裏七行「山道」の次に「の南西側にほぼこれにそうもの」を加える。)。そこで、以下控訴人の主張する字清水二五五番ロの現地が本件係争地に該当するかどうかの争点について判断する。
一、字図等による考察
(一) 成立に争いない甲第三号証は控訴人らの主張する久賀島村蕨郷字清水の同第四号証は字楠泊の各字図であるところ、甲第三号証によれば、字清水には二四七番、二五五番イ、二五五番ロの三筆の土地が所在することが認められ、更に鑑定人田中勇一作成の鑑定書添付の絵図面及び字図によれば、右字清水の三筆の土地は、明治九年の地租改正当時には二四七番ないし二五五番の八筆に別れていたものが、何時の頃か判明しないが合筆せられ、合筆前の二四七番と二四八番とが合筆後の二四七番に、合筆前の二四九番、二五〇番、二五三番、二五四番及び二五五番か合筆後の二五五番イに、合筆前の二五一番と二五二番か合筆後の二五五番ロに夫々なり、二四八番ないし二五四番は現在欠番となつていることが認められる。ところで、これら字図の記載についてみるに、久賀島村においては原則として一般の場合と同様、土地に対する番地はほぼ脱漏なく順を逐つて付せられ、或る番地だけがその順序を乱して飛び離れて特別に存在するようなことは通常ないことが認められる。そして、右楠泊二四六番の二五、二六の土地が本件係争地の南西側の峰の稜線を境界としてこれに接続して存在することは前認定のとおりであるから、字清水二四七番、二五五番ロ等の土地は本件係争地の近くか或いはこれと同一場所に存在しなければならぬ筋合いである。
なお、楠泊二四六番の二五、二六が字楠泊の地番としては最もその数が大きいものであるから、本件係争地が字清水に存在し字楠泊内に存在するものでないことも明らかである。従つて右認定に反する原審証人江頭鉄之助、坂本彦兵衛の証言は措信できない。
(二) 原審証人阿野竹造、市川留三郎、紙村益蔵、松本松五郎、上村申松、江頭岩松等の各証言、原審被控訴人釘本彦松本人尋問の結果等は一致して本件係争地の北側、すなわち原判決添付第一図面の<8>ないし<19>の山道(或いは谷川)の北側は久賀部落の管理する旧久賀島村(現在合併により福江市)所有の入会地である旨述べているので、該事実はこれを認めるに十分である。ところで、成立に争いない甲第二三号証によれば字清水二五五番イ山林四町歩は久賀島村の所有にかかることは明らかでありかつ、前認定のとおり右久賀部落管理にかかる実地は字清水に所在するのであるから、該山林が字図上の二二五番イの土地に該当する現地であると認めるのが相当である。以上の認定を左右するに足りる証拠はない。
(三) 扨て、前示甲第三号証によれば、字清水二五五番イと二五五番ロとは朱色の巾をもつた東南から西に通じる線によつて区画され、右線は一見して山道を表示するものと解されるところ、原審(一、二回)及び当審における各検証の結果によれば、本件係争地の<8>ないし<19>付近には久賀湾の海岸から東南に上る山道があり、前示楠泊二四六番二五、二六の所在位置、字清水二五五番イの現地等に鑑みると、右字図上の山道は本件係争地の北側すなわち、<8>ないし<19>の山道に合致するものと解するのが相当である。そうすると、控訴人ら主張の字清水二五五番ロが本件係争地に相当する蓋然性は字図上極めて高度なものとなるのである。被控訴人らはこの点を争い右甲第三号証に表示される山道は原審第二回検証調書添付図面表示のラ点から通称盲医者屋敷の東側を通りム点に至る山道にあたり、字清水二五五番ロの実地は該道路盲医者屋敷の東南方に所在する旨主張するのであるけれども原審証人市川留三郎、松本松五郎(各二回)の証言に原審(二回)及び当審検証の結果によればいわゆる盲医者屋敷(これについては後述)から右図面の海岸であるラ点に至る判断たる山道は存在しないのみならず(従つてこれが字図上表示されたものとも考えがたい)、被控訴人ら主張の右山道なるものの方向はほぼ西北に通じており、甲第三号証に表示された山道の方向とは大きく相違するのであつて、到底被控訴人ら主張の右山道を以て右字図表示の山道に該当するものとは認めがたいのである。従つて、以上の認定に反する原審証人田中勇一の証言は措信しない。
(四) 被控訴人らは、本件係争地の地番は不明であるとして原審以来証拠上何ら明らかにするところがない。また、積極的にこの土地が無番地であるとも主張しない。被控訴人側の証人の多くは字図等を調査すれば判明するというだけである。しかも、原審被控訴人釘本彦松本人尋問の結果によれば、本件係争地は字清水に所在することを認めるのであるから、全体として右土地が字清水に存在することはこれを承認するものの如くである(なお、この事実は前示のとおり証拠上も認定されるところである)。ところで、前示のとおり字清水には字図上三筆の土地があるばかりであり、本件係争地が久賀部落管理にかかる字清水二五五番イとは前示<8>ないし<19>付近の山道で画されていることは前認定のとおりであるから、これが二五五番イでないことも明瞭である。そうすると、本件係争地は字図上は二四七番か二五五番ロかの何れかに該当するであろうということになる。
ところで被控訴人らは右二四七番の土地は前示盲医者屋敷跡である旨当初から一貫して主張して来たのであるから、これによれば本件土地が二四七番にあたらないことも明らかである。そうすると字図上でみるかぎり本件係争地は字清水二五五番ロの土地に該当するものと結論せざるを得ないことともなるのである。仮にこのように解せずして被控訴人ら主張のとおりの位置に字清水二五五番ロが所在するものとすれば、前認定の字清水二五五番イの所在位置に鑑み、二五五番ロ地は二五五番イ地の中に存在することにならざるを得ず、そうなるとすれば、字清水に所在する三筆の土地は字図とは全く異る関係において現地があるものと認めざるを得ないが、或いはこの結論を承認せずに字図に忠実なろうとすれば、二五五番イ地を更に盲医者屋敷の西北方に求めざるを得ず、楠泊二四六番の二五、二六の土地と字清水二五五番との間に広大な範囲にわたつて蕨部落と久賀部落管理にかかる地番不詳の土地の存在を認めることとなり、前示字図の記載に信を措く限り到底支持しがたい結論とならざるを得ないのである。勿論いわゆる字図は測量技術の未だ極めて不完全な明治初期に作成せられたものであつてみれば、その表示する地積や距離関係にはかなり正確度を失う点があることは否定しがたいところであるけれども、少くとも見取図として現地の形状ないし方向、隣接地との関係等を示す資料としては相当高度の信憑性を有するものであることは経験則上も明らかであるそして被控訴人らの主張は字図自体に即してみるかぎりかなりの不合理性をもつものといわざるを得ないのである。
(五) 被控訴人らが本件係争地が盲医者屋敷跡付近の原審第二回検証調書青斜線部分に所在すると主張するに至つたのは、字清水二四七番の土地が右盲医者屋敷跡に所在することを前提として甲第三号証の字図の記載を措信するかぎり字清水二五五番ロの土地は被控訴人らのいう位置に存在することになる筈であるというにあるものと解される。そして、原審及び当審における検証の結果によれば被控訴人らが盲医者屋敷跡と主張する場所には石垣が残存して一見人のかつて居住した古い屋敷跡ではないかと推認されるものが現存することは明らかである。然し、右盲医者屋敷が字清水二四七番に所在するという両者の必然的関係は本件訴訟に顕出された全資料によつてもこれを確認することができない。なるほど、原審証人山田覚、平山幸雄、道脇喜一、田中勇一の各証言、原審鑑定人田中勇一の鑑定結果等によれば本件伐採の行われる前の昭和三三、四年頃本件土地につき当初は境界をめぐつて控訴人ら折紙部落民と蕨部落の者との間に紛争があり、福江市の吏員らが両者の争いを調停したことがあつたが、その際盲医者屋敷跡が二四七番の土地であることにつき、両者間に争いがなかつたもののように窺われ、若し二四七番の現地が盲屋敷跡であるとすれば、字図上二五五番ロの所在位置もその付近でなければならぬということになり、当初二五五番ロの所在位置につき控訴人らの主張場所であることにほぼ争いがなく、単にその境界についてのみ存した両者間の紛争は二五五番ロの所在位置をめぐる紛争へと転化発展したこと、また、原審鑑定人田中勇一の鑑定結果も当事者間に盲医者屋敷跡が二四七番に該当することに争いがないとしてこれを鑑定の基礎としたことが夫々認められる。然し、これらの者が更にすすんで果して盲医者屋敷跡が真実右二四七番に該当するものであるかどうか、その現地付近に二四七番或いは二五五番ロの土地が存在し、これを認めるに足りるような土地の形状とこれを支持する占有関係が存在するものであるかどうか、更にはかく解しても字清水、字楠泊の各字図との関係や従前の近隣地の占有使用関係等に矛盾を生じないものであるかどうか等々、およそ山林境界確定のために必要とされる基本的諸条件について配慮をめぐらした事実は何ら認めることができないのである。また、原審証人市川留三郎(二、四回)、松本松五郎、松井幾太郎、当審証人江頭祥男、藤井清太郎、江頭馬之進、藤原元良、野原金次郎の各証言は何れもいわゆる盲医者屋敷が二四七番の現地に存在することを否定し、右屋敷は字清水二五五番イの中にある旨述べているのであるから、当裁判所としては右盲医者屋敷が字清水二四七番であるとして爾余の土地所在地を定めようとする見解にはたやすく与することができないのである。なお付言するに、成立に争いない甲第二二号証によれば、字清水二四七番の土地は公簿上山林三反四畝と表示され(従つて、その中に古くからいわゆる盲医者「屋敷」があつたということは登記簿の地目の表示からすれば寧ろ異常のことである)大正元年一一月一八日国税滞納処分による税務署の差押嘱託により初めて久賀島村清水又五郎、田中万蔵両人名義に所有権登記がなされ、同年一二月二〇日税務署のなした公売により、久賀島村の藤原元之助に所有権移転登記(大正二年一月二九日付)がされ、大正三年三月一二日付の贈与を原因として大正八年三月一五日藤原栄次のために所有権移転登記がなされていることが認められ、右記載のみからすれば、当審被控訴人釘本彦松本人尋問の結果によつて窺われる如く、同地には早くから人が居住しその名の示す如き古い伝説ないし由来のまつわる土地を含んでいるもののようにも解しがたい。なお、この点に関する原審証人江頭鉄之助(一、二回)塩辺三郎の各証言は何れも措信しない。以上の諸点、その他、右盲医者屋敷跡を二四七番地と解しかつ甲第三号証の字図を措信するかぎり生じる前示不合理な諸点を考慮すると、字清水二四七番地が右盲医者屋敷にあり、従つて二五五番ロもその近くに所在する旨の被控訴人らの主張は採用しがたい。
二、地形的状況等による考察
前認定のとおり本件係争地の北東側は山道及び谷あいの小川であり、その南西側は字楠泊二四六番の二五及び二六の山林との境界をなす峰の稜線である。また東南側には控訴人らが境界の標識として主張する松の切株(前示図面<20>)や自然石(控訴人らの夫婦岩と呼ぶもの)、蘭竹、石塚等が存在する。そして、これらは何れも本来他の証拠と相まつて山林境界を確定するに足りる資料となりうるものであつて、本件係争地がその現地の四囲において前示の如き形状をなし、或いは標識を具有しているということは該土地が一個独立の区画を有する土地部分にあたることを推認するに足りるものというべきである。然るに被控訴人らが本件二五五番ロの現地に該当すると主張する土地については何ら前示の如き地形上の特質や標識について指示主張しないのみならず、原審及び当審における検証の結果によつてもこれを窺うことはできない(このことは、被控訴人らが盲医者屋敷跡にあると主張する二四七番山林三反四畝の境界についても同様である)。以上の事実は本件係争地につき控訴人らの主張を裏付けるに足りる反面、間接的ながら被控訴人らの主張事実の理由なきことを明らかならしめるものというべきである。
三、占有管理等の状況
原審証人阿野竹造、本村国松(一回)、紙村益蔵、田脇栄太郎当審証人江頭祥男の各証言、原審控訴人本村又助、紙村音八各本人尋問の結果によれば、控訴人らの先代や控訴人らが明治末年頃から大正及び昭和にかけて数回本件山林及びその付近において伐木した事実が認められ、以上の事実に原審証人市川留三郎(一回ないし四回)、松本松五郎(一回)、松井幾太郎(一、二回)の各証言が何れも本件係争地は字清水二五五番ロにあたり、控訴人らやその先代の管理にかかるものである旨述べていること、並びに前示原審証人山田覚、道脇喜一の各証言によつて窺われるように、控訴人らと蕨部落民との間において当初二五五番ロの所在位置が控訴人ら主張の場所であることには争いがなく、唯その勉界についてのみ紛争があつていた等の各事実を併せ考えれば、本件係争地は本件紛争の発生まで控訴人ら先代や控訴人らによつて占有管理されて来たものと認めるのが相当である。もつとも、原審証人上村申松、江頭岩松、下浜百松、板谷彦兵衛の各証言によれば同人らは蕨部落の者で子供の頃から本件係争地で薪等をとつていたというのであり、これを否定する的確な証拠はみあたらないけれども、たといそのような事実があつたとしてもこのことから直ちに本件係争地を蕨部落が部落として管理していたものということはできない。
また、原審証人川端コマツ、江頭岩松の各証言は、宛も蕨部落が本件係争地の管理処分権を有してその雑木をコマツの夫十吉に売却したことを推認せしめるものの如くであるけれども、何分にも昭和五年頃の唯一回のことであり、その真否も決しがたく、前認定を覆えし蕨部落の本件山林に対する占有管理を推認せしめるに足りないものというべきである。
また、原審証人江頭鉄之助(一、二回)、平山幸雄、脇内政吉、平山宇三郎の各証言によれば、昭和二八年四月頃控訴人らが脇内に本件山林付近の立木を売却し、脇内においてこれを伐採中、当時久賀島村長の地位にあつた江頭らがこれを差止めた事実は認められるけれども、右脇内の伐採地が果して本件係争地内であつたか或いは字楠泊二四六番の二五、二六の山林であつたかは必ずしも確定しがたく(寧ろ後者である可能性も強い)、右事実があつたからといつて控訴人らの本件係争地の占有関係を否定する資料となるものではない。その他、本件係争地が蕨部落の管理にかかるという原審証人上村久三郎、板谷彦兵衛、塩脇千太郎、塩辺三郎の各証言、原審及び当審における被控訴人釘本彦松本人尋問の結果は何れも措信せず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。また控訴人らが被控訴人らが字清水二五五番ロと主張する現地を占有管理していた事実はこれを認めるに足りるなんらの証拠もない。
四、余論
控訴人らはさきに本件係争地と字清水二五五番イの土地との境界を原審一、二回検証調書表示の谷川と述べ、後にこれを前示山道と述べており、その主張に一貫したものがないことは記録上明らかである。然し、原審及び当審検証の結果により明らかな如く右谷川と山道とは至近距離の間隔を保つてほぼ平行しており、係争地を全体としてみた場合、その何れをとつたところで当事者に与える利益の点においてはさして異るものはないばかりか、山道といい谷川というも山林境界確定上は通常しばしば参照されるに値し認定の資料となり得るものであるから、前示の如き状況のもとにおいては当事者の主観においてその何れかを境界として選択して主張するということはあり得ることであり、これを以て当事者の境界線に関する基本的主張の変更であるとして事件の全貌を左右するかの如き判断をするのはもとより失当である。当裁判所は右両地の境界線は前記山道にあたるものと判断するのであるが、これによれば控訴人らの主張する本件係争地は二五五番ロの実地の範囲内であることが推認され、また、同地が鳥栖千太郎所有の水田を二分するものでないことは甲第一一号証の記載に徴し明白である。
五、結論
以上本件訴訟に現われた字図等記載の状況、現地の地形やその特徴、本件土地の占有関係等を綜合すれば、控訴人らの主張する清水二五五番ロの現地は本件係争地に該るものと認めるのが相当であり、被控訴人らはこれを争うものであるからこれが所有権の確認を求める本訴請求部分はその理由がある。また、被控訴人らが昭和三四年一〇月頃、共同して本件係争地から伐採した木材が松約一〇〇石であり、これが原判決請求原因五、六項摘示のとおりの経過によつて供託されていることは当事者間に争いがないから右木材従つてその換価金は原告らに帰属するものというべく、これを不法に占有する被控訴人らに対して連帯してその引渡を求める控訴人らの本訴請求部分もまた相当としてこれを認容すべきである。よつて、これと結論を異にする原判決はこれを取り消すこととし、民訴法三八六条、八九条、九六条により主文のとおり判決する。